伊藤小坡 熊野(ゆや)の図
2018年9月25日(火)
伊藤小坡筆 熊野の図 一行幅を入手しました。
「熊野(ゆや)の図」
伊藤 小坡(いとう しょうは 1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)は、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。
日本画家伊藤鷺城の妻。名は佐登(さと)。はじめ森川曽文に学び、のち谷口香嶠に師事。竹内栖鳳の竹杖会に入り上村松園と並ぶ閨秀画家として知られた。
上部に清水寺と桜を描いています。
熊野「ゆや」のあらすじ
遠江の国(現在の静岡県)、池田宿の女主人である熊野(ゆや)は、京の都で、平家の公達で権勢を振るう平宗盛(たいらのむねもり)に仕えています。このところ故郷の母の病状が思わしくないと聞き、故郷に帰りたいと、休暇を願い出ますが、宗盛は今年の花見までは一緒に過ごそうと言って、聞き入れません。その頃、熊野の一家の侍女である朝顔が、母の手紙を持って訪れます。文には、病状が思わしくなく、今生の別れが来る前に一目でも会いたいという切々とした母の願いがしたためられていました。一刻も猶予はないと熊野は、母の手紙を宗盛に読み聞かせ、帰郷の許しを一心に願います。しかし宗盛は、許すどころか清水寺の花見に同行するように命じます。
春爛漫の中、楽しげな都の人々の様子を見ても、熊野の心は故郷への思い、母への気遣いで沈みがちです。心ならずも酒宴で舞を舞っていると、急に時雨が来て、花を散らしてしまいました。これを見た熊野は、母を思う和歌を一首読み上げました。その歌はかたくなな宗盛の心に届き、ようやく帰郷が許されます。熊野は、宗盛が心変わりしないうちに、と急いで京を発ちました。
一文字は紫地 鳳蝶金襴。中廻しは石畳宝尽紋です。
作者共箱。
軸 総丈 208センチ
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